明日への希望!被災地応援ファンド
必ず復興する!
麺の丸光食品を必ず 復興させる!!その言葉は 震災後、たった一日の3月12日にはなたれた言葉でした。
その思いは 『被災地応援ファンド』にも伝染しました。『被災地応援ファンド』のお話は私どもの希望になりました。
2011年3月11日午後2時46分―その時、丸光食品は・・・
その日、気仙沼は今まで感じたことのない大きな地震が発生しました。東日本大震災。
のちにこの揺れについた名前です。その時、社内は 作業中でしたが『とにかく逃げろ!』私のその声とともに
従業員は走り出しました。
母の姿が見えない!急いで自宅の方に走ると テーブルの下で震える母を発見しました。腕をつかみ 引きずり出し両親を逃がしました。
しかしその後、二人と再会できるまでには時間がかかりました
丸光食品社長のゆくえ
両親は高台まで行くのは間に合わないと判断し 近くの避難場所であるビルへ 駆け込みました。そこには近くの園児も避難していたそうです。
そして 想像より かなり早く到達した津波は 恐ろしい轟音とともに 避難したビルにも向かってきました。
丸光食品本社工場から そう離れていない避難所での光景に 両親は覚悟していたようです。遠くの方で 船を守るため あえて沖へ出た漁船がまるでジェットコースターの様に上下しているのが見えたそうです。
津波の後の新たな恐怖
悪夢のような津波は長い時間続き その後は 燃え上がる海と大島。
停電で真っ暗な室内を真っ赤に燃えた炎が海の中を漂い がれきに燃え移り 窓の側まで流れてきます。
火災は 他方面で発生し 目をふさいでも 耳をふさいでも 瞼には赤い色がうつり 鼓膜にははじける音が聞こえ
潮のにおいと燃えるにおい そしてがれきのにおいが鼻をつき… 園児を含めた避難者は、寒さと空腹に耐え
それから3日後、屋上から自衛隊のヘリで救助されました。たった 3日かもしれません。
しかし、私達には途方もなく長い時間に感じました。
丸光食品社長を捜した3日間
災後、両親を捜し町中を家族で歩きました。
市内100ヶ所におよぶ避難所を探し歩き 1万2千人を越える避難者名簿をしらみつぶしに探し 死亡者名簿とも向き合わなければなりませんでした。
諦めかけた3日後、両親と再会し 唯一、つながり始めたライフラインの一つ 携帯電話には従業員の無事を知らせる電話が入り始めました。
そして復興へ 丸光食品始動開始
よし!本格始動だ!
そう思ってもガソリンすら手に入らず 歩いて回っても金融機関や行政でさえ被災し 全く機能を停止していました。町中ガレキの山と火災の後、地獄絵図とは きっとこの頃の気仙沼をいうのだと思います。
震災復興!と叫んでみても 話は進まずにいたところへ 今回の『被災地応援ファンド』の話をいただきました。
『被災地応援ファンド』の概要は 製造業である丸光食品にマッチした企画だと感謝しています。
今までの工場跡地は地盤沈下で 新工場は建てられませんが
新たな地に新工場を建て 一日も早く皆様の元へ 丸光食品の麺をお届けしたい!
その思いで まい進して参ります。
